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天の国のレガシー(マタイ5:1-12)ー2020. 11. 1. 全聖徒の主日

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作成者 최고관리자 作成日20-11-07 17:15照会52회 댓글0건

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多くの人々は、天国というところが結果として現れるのだと思います。
この世でどのように生きたのかによって、天国という報いが与えられると思います。しかし、イエスさまは天の国が結果としてのみ現れると言われていませんでした。イエスさまにとって天の国は開始であり、過程であり、結果でありました。イエスさまは私たちに祈りをこのように教えられました。「天にましますわれらの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」神の御心がこの地でも成し遂げられること。それは、天の国がこの地に臨むことであり、私たちがこの地に臨んだ天の国で生きるようにしてくださいということです。そして、私たちが塵に返る日、私たちは、神さまの御心が成し遂げられた別の所、私たちの先祖がいる天の国に入ることになるのです。

イエスさまは、今日の福音書を通して天国について言われます。
天国が誰に与えられたか、誰が天国に入ることができる人なのかを言われます。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(3節)。」この言葉は、当時のユダヤ人たちに違和感を覚える言葉でした。なぜなら、彼らにとってこの世で豊かに生きるのは、神さまから祝福を受けたこととして思われたからです。つまり、人間が神さまに仕えるなら、神さまは彼にこの世の多くのものを与えられ、彼から何も回収していないということです。ユダヤ人の頭にはこのような考え方がしっかりと占めていました。もし、ある人が成功をしたり、お金持ちになったりしたなら、神の恵みを受けた証拠でした。そうでない場合は、神さまに呪いを受けたという証拠でした。このような考え方は、旧約聖書のヨブ記に示されています。ヨブの友たちは、ヨブが罰を受けているのは、ヨブが犯した罪のためだと言います。だから、ヨブが自分の過ちを認め、悔い改めるなら、神さまが罰を取り入れられるのだと主張します。しかし、イエスさまはこのような考え方に反対になる話をなさいます。「金持ちに幸いがあるのではない。貧しい人々が幸いである。そして、その貧しい人々が天の国を所有することになるのだ。」これがイエスさまのお話でした。

このような言葉に多くの人々は、疑問を持つかもしれません。
イエスさまの言葉通りなら、貧しくならなければならないのか。誰にでも金持ちになってはいけないのか。豊かな人々は、地獄に行くようになるのかなど、様々な疑問が生じるでしょう。これに対して、私たちが注目しなければならない言葉があります。貧しい人々という言葉の前には「心の」という言葉がついているということです。財産がないから、貧困な生活をしているからといって、天国が自動的に与えられるわけではありません。心が貧しくなければ、天国が与えられないのです。では、心が貧しいという言葉は何でしょうか。日本語の聖書では、「心」と書かれていますが、英語の聖書には、「poor in spirit」、韓国語の聖書には、「霊的な心」と書かれています。霊的に貧しい人々。その人に天の国が与えられるのです。

しかし、霊的に貧しいということも、やはりよく理解されません。
霊的に貧しいということは、一体何を意味するのでしょうか。私は霊的に貧しいということが、今日の福音書4〜9節に書かれていることだと思います。「悲しむこと、柔和なこと、義に飢え渇くこと、憐れみ深いこと、心の清いこと、平和を実現すること。」このことが霊的に貧しいことであり、このようなことを求めている人々に天の国が与えられるのです。だから、物理的に、外的に貧しくなることや金持ちになることは、神さまが私たち信仰の者に要求することではありません。それは私たちの選択と努力にゆだねられているのです。金持ちになったとしても、神さまに祝福されたことでもなく、貧しくなったとしても、神さまに呪われたことでもありません。ソロモンはイスラエルの王の中で最も豊かな人であり、力を手に入れた人でしたが、彼は神さまから離れ、それによって自分の国を息子ではなく、家臣に渡させられます。逆に、洗礼者ヨハネは、貧しい人として生きていましたが、イエスさまから、「女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と認められます。この世での富や貧困は、神さまが私たちに与えてくださるものとは、密接な関係があるわけではないというのです。

神さまが私たちに願っておられるのは、私たちが霊的に貧しくなることです。
自分だけのための人生を生きること、この世で永遠に生きるように、私たちの思いを寄せることを神さまは願われないと思います。神さまは私たちがこの世で、悲しむ者として、柔和な者として、義に飢え渇く者として、憐れみ深い者として、心の清い者として、平和を実現する者として生きることを望んでおられます。そして、これを受け入れる人々に「天の国はあなたがたのものである」と言われます。この天国の約束は、私たち信仰の人にとっては栄光のことです。朽ちるこの世のものではなく、永遠の神の国が与えられたからです。その国で信仰の人は永遠に生きるのです。今は、この地に臨んだ神の国で生きるのであり、生涯が終わってからは、天にある神の国で生きるのです。これが心が貧しい人々が受けることになる報いです。

そして、イエスさまは、報いが与えられる他のグループについて言われます。
天の国が与えられるもう一つのグループは、「義のために迫害される人々」です。今日の福音書10節の御言葉です。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」イエス様は心が貧しい人々だけでなく、義のために迫害を受ける人々にも天国が与えられると言われます。ルターによると、キリストが「義のために」という言葉を付け加えられたのは、意味があることだと言います。義のためという条件なしの迫害だけでは、天国が与えられないからです。悪い者も、迫害を経験しています。自分たちの利益のために互いを迫害しているのです。彼らの間には、愛によって損することはありません。だから、彼らは迫害を受けることはできますが、神の国を得ることはできません。義のためのことではないからです。

イエスさまは11節で、ご自分のために迫害を受ける人々には、幸いがあると言われます。
義を求め、正しいことを行うために与えられる迫害だからです。イエスさまの弟子たちと初代教会の人々は、自分の罪や過ちによって迫害を受けたわけではありません。イエスさまを主と認めたので、イエスさまの教えに従って生きたので、迫害を受けたのです。これらのことは、今、私たちの時代でも起こっています。イエスさまの時代のように、信仰によって迫害を受ける国もあります。そして宗教の自由はありますが、イエスさまを信じているという理由によって、断られ、非難され、損害を受けることも起こっています。これは過ちや罪を犯したからではありません。私たちが彼らと別の道を歩いていて、彼らの教えに従っていないからです。そして、このような私たちを彼らが認めてくれないからです。

過去から現在に至るまで、イエスさまに従っている人には、大小の苦難が与えられました。
正しく従おうとすればするほど、より大きな苦難と損害と非難にぶつかりました。なぜなら、イエスさまの教えは、正しくないものと手を握らないからです。正義を求め、神の愛を分かち合っている限り、信仰による苦難を避けることはできません。しかし、イエスさまはこのようなことを喜びなさいと言われます。天には大きな報いがあるからです。信仰によって受けた苦難は、天の報いによって返されるのです。天国の遺産。その中には苦難と祝福が共存していると思います。私たちの信仰の先祖たちも、その遺産の中で悩んだり、喜んだりしていたと思います。私たちも同じでしょう。しかし、神さまは、その信仰を通して、私たちに平安を与えてくださるのです。私たちが苦難の中でも、神に従うことができるように、喜びの中に神の国に入ることができるように、私たちを導いてくださるのです。この神さまの平安と導きが皆さんと共にありますように。私たちの先祖たちに与えられた神の国が、皆様の上にも臨みますように、主の御名によって祈ります。アーメン

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